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医療法人社団健永いずみ会
岩瀬クリニック

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2011年東北関東大震災、気仙沼日記(4月6日5時50分)

2011年4月6日(水)午前5時50分:

いつのまにか3日間が過ぎてしまった。自分の体力があればもっともっと出来ることがあるのに、残念だ。ただ、今回で終わりと言うわけでもなく、気力がある限り今後も続けていこうと思う。何と昨日ビックニュース!小石川医師会の近藤和喜夫先生が繋いでくれる意思表示をして下さった。心が躍る。
昨日、診療の合間を見つけて、友達の両親(2人とも70歳近い)(海岸近くで旅館経営)を車に乗せて自宅兼旅館へ連れて行った。一面焼け野原で潮湖、廃材そして原爆ドームのような建物の散在が地平線を埋めて、まさに原爆投下後の都市と同様だ。この中に何百人の遺体が沈んでいるのだろうか。廃材処理の大型トラックが私のレンタカーを当然邪魔者のように扱い、ペコペコ頭を下げながらたどり着いた旅館は、何とか原型を留めていたが、周辺はすべて焼け野原で潮湖、廃材、廃墟のみ。奥様に聞いたら持ち主に無許可で壊されるそうだ。車窓を開けると30年前に市立病院内科医の友人に会いに、ここに来たときと同じ潮の香りとお魚の匂いがして妙に涙が出た。石巻出身の彼とも連絡が取れず、どうしているのか?あの時彼にご馳走になったお刺身が美味しくて忘れられない。港に行くと大型船が道路の上に横たわっており、真っ黒焦げになった漁船が港に何隻も停泊している。海が燃え、その火の海が津波になって陸に上がってきて、まさに地獄絵であったそうだ。お二人は車で逃げたものの後ろから津波に追いつかれて一気に呑まれ、奥様は一瞬目の前に居たビルの屋上の人に助けられたものの、ご主人は流されてしまう。そのあと強烈な引き潮で奥様の目の前を人が乗った沢山の車が沖に流されて行くのを見ていると、目の前をご主人の車も流れて行ったそうだ。お別れを覚悟した瞬間、ご主人の乗った車が廃墟の一部に引っかかり、留まった。九死に一生を得たとはまさにこのことで、その時留まったのはご主人の車だけだったそうだ。大島で仕事をしていたご子息は、津波を早くに察知して無事だったとのこと。あのような最も危険区域に住んでいた家族としては有り得ない運の良さではあるが、仲間の心配をしているのだろう、彼らから笑顔をみることは一度もなかった。こうして日記を書いていても涙が止まらない。ディスプレイがぼやけてしまう。現在、6時40分、もう2時間もパソコンに向かっている。市民会館の人々も皆起きだして、物音があちこちから聞こえる。今日の仕事が始まる。
私もこれから医療救護本部まで車を飛ばして、各救援チームとカンファレンスと薬の調達をして、戻って9時から診療が始まる。

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本日記は下記にて2011年4月2日より随時更新中です。
【記】
1)医療法人社団 健永いずみ会 岩瀬クリニックHP  http://www.hospita.jp/890/ 
2)母校 学校法人 日本医科大学HP http://home.nms.ac.jp/ 
  東日本大震災における本学卒業生の救援活動について 
3)母校 駒場東邦中学校、高等学校HP http://www.komabajh.toho-u.ac.jp/